ルオーと海南鶏飯 @汐留



行ってきた。


油彩の立体感ってすごい。近くへ寄ると、全体が分からなくなるほど一筆の力強さを感じるのに、遠くへ離れると、構図として均整のとれた風景画である。ただ、聖書のことをもっと理解してから鑑賞すれば、彼の作品をより楽しめたのではないかなあと感じた。どちらにせよ、作風や歴史的文脈なんてものは、僕には分からない。


なぜか考えたのは、孤独な人間の故郷愛の強さのこと。心の中にある故郷への思いというのは、万国・全時代共通の人間が孤独を感じた時に拠り所とするものなのかもしれない。人によっては、それはむくむくと心の中で美化されて、肥大していく。だからこそ、久しぶりに帰った故郷の風景が変わり果てていると、どこか支えを失ったような寂しさを感じてしまう。何も、人が死んだわけでもないのにね。

ルオーが描写した風景も、彼自らの生活していた場所が切り取られていることが多いらしい。モデルとされたであろう場所と彼の作品が同じもののように見えないのは、彼の見た「故郷」なのか。


7月3日(日)迄だそうです@汐留ミュージアム。詳細はこちら


そして、こんなニュースも↓

汐留ミュージアムを次世代照明化 LED照明と有機EL照明(試作品)を設置(asahi.com)

この企画展に合わせて導入された模様。絵画展示に於ける照明の役割というのは、作品の見え方を左右するという意味でとても重要な要素だと素人ながらに思うのだけれど、LEDは白熱灯より色が鮮明に見えるんだそうで。


帰りには、近頃はまっているシンガポール料理、海南鶏飯を食べた。自分の大好物である「蒸し鶏」+「パラパラごはん」のコンボはやはり美味。他、食べた大根もちも美味しく頂いて、シンガポール料理きたでこれは。

夕べの夢の、意味を手繰ってる sleepy.ab @東京グローブ座


再更新一発目はLive。


新大久保にある円形劇場、東京グローブ座というところで、札幌出身のsleepy.abのワンマンを観てきた。この東京グローブ座、20年ほど前にシェイクスピア演劇の普及のために設立された施設らしく、普段はもっぱら演劇公演に使われるのが主らしい。なるほど確かに、ライブハウスとは雰囲気が全く違う。(詳細はリンクからHPへ)


客層は、若干女性の方が多い。というか、最近どこのLiveに行っても女性の比率が多い気がするのは気のせいか。年齢層の方は、意外や意外、お年を召された方も沢山いらっしゃったようである。


さて、肝心の演奏。CDの方を長い間愛してきただけあって、Liveでは「がっかり」が伴うのではないかと多少心配になったが、素晴らしい内容だった。


新譜「Mother Goose」では、メジャーデビュー2作目ということもあり、また、実際ポップに聞けるメロディラインのものが多くなっていたので(楽器の演奏よりもVo.のマイクの音が大きく、特にベースはあまり響いていなかったのが残念ではあるけど、そんな「メジャー路線」も関係しているのかもしれないとか、下衆の勘ぐりをしてみたり)、メジャー以前の楽曲とあわせて聞くと、このセットリストの幅の広さはとても楽しく感じられた。しかし、どんなに曲の幅は広くても、激しい曲をやろうが、おとなしい曲をやろうが、スリーピーはスリーピーなのである。この辺のブレが全くなかったのも、安心して聞いていられた要因かもしれない。


また、舌足らずなMCはバンドの雰囲気にとても合っていて、仲の良さそうなバンドだなあ、とほっこりした気分にもなった。


オーディエンスが全員座席に着席したままのロックバンドのライブという珍しい状況の中で、しかし僕含むオーディエンスは大満足の様子、ダブルアンコール含む正味2時間30分のステージでした。


ということで、聴いたことのない方も是非に。おすすめのアルバム、曲のリンク等貼っときます。


Mother Goose

Mother Goose

新譜。


archive

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名盤。




この円形劇場で少し斜めからステージを観て感じたのだけれど、演劇のステージって、やはり真正面以外から見られることも多分に意識しているのだ。ライブハウス等でバンドのライブを観ると、自分のチケットの番号が客席の端の方になり、いたく落胆するという経験は誰にでもあろうかと思うが、それはきっとライブステージを「面」で観ることに終始しているから。ところが、動いている人間には、横顔もあるし、背中もある。舞台に奥行きもある。Liveに来たからには、生「音」というものだけでなく、演劇的な生の身体表現も存分に味わえたらもっと楽しいんではないかなあという気分になった。


そして帰りに、コリアンタウンである新大久保ならではの韓国料理屋を堪能しようと思っていたのだが、連休のはじまりだからなのか、人気のお店はどこも混んでいた。仕方なく少し高めの焼肉「大使館」なるお店に入った。入り口には「首相、六本木大使館訪問!」と題された鳩◯首相のアップ写真が・・・なんだか凄く心配になってきたけど、味は普通に美味しかった。しかし、週に2回焼き肉はきつい。

ひさしぶりすぎる


久々の更新。実に、14ヶ月ぶりである。14ヶ月前に産まれた赤ちゃんとか、もう3倍くらいの大きさに成長しているのではないだろうか。更新が滞る前に書いた記事はわずか5。やはり継続という言葉は自分には向いていなかったのか、Twitterの手軽さに浮気してしまったのか、まあそんなことはどうでもいいのだが。


相変わらず紙の日記はつらつらつらつらと続けていたので、文章を書く習慣は止まっていないのだけれど。


思うに、自分は何か文章を書く時にその外側の「器=紙ならノートの種類、ブログならページレイアウト」というものにこだわり過ぎて、あーだこーだと思案しているうちに、内容を書くのがしち面倒になってしまっているらしい。なので、今回はもっとコンパクトにやろう、と固く決心した、せめて今度は記事10個くらいは・・・


ここでまた、社会人一年目を終えた総括なんて大げさなテーマで書こうとしてしまえば、たちまちまた更新が滞るであろうから、もうすこし気楽にやることにする。

文化庁メディア芸術祭 −身体性とメディア、制約条件の利用


早めに帰宅したのでブログを書く。近頃またまた滞っていたので。滞った理由は何かというと、多分僕はカチッと長い文章を書かなければいけない、という変なこだわりがあるからだ。なので、イベント1つにつきエントリー1つくらいで気軽に書いていくくらいが丁度いいのかも。


乃木坂の国立新美術館で開催されていた文化庁メディア芸術祭に行ってきた。もう一週間近く前だけど。エンターテインメント・アニメーション・ゲーム・アート・漫画など、様々な分野のメディア(と括っていいのかすら分からないほど幅広い)作品群を表彰し、展示していた。そこで思ったことをいくつか。


まず、ゲーム分野。最近はあまりゲームをしないのだけれど、ここにきて驚かされた。もうどこからどこまでを「ゲーム」と呼んでいいのか分からない。昔はやっぱり、(TV)ゲームってコントローラを握った両手で操作するものだったじゃないですか。動いているのはせいぜい手首より先。それが、Wiiやなんやの登場で、それをプレイしている人間(体験させてもらった俺も勿論)は、全身動いているんですよ。当たり前やないか、といわれればそうなんだけど、これってすごいことだなあと思った。

僕は今23歳なんですが、僕らが子供の頃はよく周りの大人に「ゲームばっかりやってないで外で身体動かして遊んで来い」とかいわれたりした事から、ゲームと人間の身体性って正反対の位置にあったはず。そのゲームが、ぐるっと一周回ったうえで、身体性を獲得している。それは単なるTVゲームではなくて、スポーツであり、コミュニケーションツールだ。こういったゲームをプレイする人間は、「仮想空間にのめりこむ」といった認識はもうしないと思う。どちらかといえばもう「自分の動作と映像のキャラクターがシンクロしている」といった認識なのでは。ちょっと乱暴な言い方になるけど、「ゲーム脳=現実と仮想の区別がつかなくなる」とかいう、昔少年犯罪が起こると決まってマスコミに引っ張り出された話ももうなくなるわけだ。これは面白い。

なんか新しいことだと感じて書き始めたのに、いざ自分が言葉に落としてみると実に当然のことを書いているな。文章表現能力が異常に低い。


次に、メディア芸術祭の「メディア」という言葉に関して。勿論、メディア関連の作品を展示することで「メディア」芸術祭を名乗っているのだろうけど、おそらくこの場自体がもはやメディアだった。その一つに、ツイッター広場という場所がある。そこでは、メディア芸術祭の作品に関する感動や感想、対話がリアルタイムで共有されており、この展示という場自体がそこを訪れた人、そこにはいないけれどもツイッター上の空間に存在している人を繋ぐメディアになっていた。間違いなく。


三つ目、この展示の前から物凄く話題になっていた、サガミオリジナル002のキャンペーン「LOVE DISTANCE」に関して。東京と福岡で遠距離恋愛中の男女が自宅から走り始めて最後に日本の真ん中で出会うまでを追ったキャンペーン。評判どおり、面白いよなあこれ。広告の専門知識に関しては詳しい事はよく分からないのだけれど、「話題だけを作って何の広告かは最後まで伏せておく」というのは今までにも手としていくつかあったはず。そういうのを専門用語でなんと言うかは知らないけど、「かくされてじらされると人は余計に知りたくなる」という心理を利用した広告効果。ただ、この広告の見事なところは、「コンドームの広告は、日本という環境では大々的にTVCMしにくい」という制約条件を逆手に取るためにこの手法を使用したところだ。

僕は別に広告代理店に就職してこれから面白い広告を作ってやるぜーとかそういう人間ではないんだけど、このキャンペーンからは大いに学ばせてもらった。人間、大抵壁にぶつかると「この問題がなければ」とか「こういう制限やしがらみがなければ」とかいう考えが先にたつんだけど、その制約条件をひっくり返して逆に利用するというのは見事。文句ばっかいってても仕方ないんだな。逆に今の条件の中で何ができるかだな、と妙に勇気付けられるキャンペーンであった。

こんなもん。通して思った事は、ここに展示されているメディア作品の製作者は、別に俗にいう「メディア」関係のお仕事に就いている人だけではない、ということ。つまり、個人での作品製作も可能になっている現在、どこから面白いメディアアートがうまれてくるか分からないし、どこからうまれてくるか分からないからこそ面白くなってくる。そういう状況の中、その道の「プロ」がどういう働きをするのか、そしてそれら生み出された作品群をオーガナイズして盛り上げていく仕組み(この芸術祭もその一つなのだろうけど)がどこから出てくるかが鍵なのかも。とにかく面白いイベントだったー。

続きが気になる最近の漫画たち

また更新が滞った。最近は昔より漫画を読むことが多くなったので、今日は最近読んで続きが楽しみな漫画なんかを載せていく。というか、これは書籍リンクとかの実験もかねる感じで。メモ代わりに使っているところもあるので、あまり気の利いたことはいえないかもしれない。


モテキ 3 (イブニングKC)

モテキ 3 (イブニングKC)

まずは『モテキ』。現在三巻まで刊行。作者の久保ミツロウ(女性)の作品は、田舎から出て来た高校の応援部がひょんなことからホストをやることになる『3.3.7ビョーシ!!』や、海上保安庁海猿とかで一時期話題になったやつです)の特殊救難隊をテーマにした『トッキュー!!』の頃から大好きなのだが、その理由はいくつかある。まず、久保氏の描く女の子はダントツに可愛い。少年誌的な分かりやすさと、少女漫画にある線の多い美少女の丁度真ん中というか、この辺は男性誌に連載している女性作家という立ち位置の成せる業なんだろうか。これは完全に好みの問題だけれども。そして、登場キャラクターの女性が物凄く人間臭い。別にこれが女の子の本性を的確に描写しているわけではないのだけれど、主人公の男性キャラクターの描写としっかり書き分けて、女性キャラクターの描写との双方向性が「面白おかしくずらされた形で」保たれている。


そんな作者が今回の『モテキ』で、自意識過剰で勘違いなのに気が弱くて踏み出せない男の複数の女性とのすれ違いを描いたラブ+コメディに挑戦して、面白くないわけがない!「俺にもモテ期が来たんじゃないか!」→「俺なんてどうせ・・・」を独りよがりに往復する男と、「この人何考えてんだかわかんない、はっきりしろよ!」という女の子達。その男女のディスコミュニケーションがこれでもかというばかりに丁寧に書き上げられていて、まさに素晴らしいまでの「痛さ」である。痛い、痛い、本当に痛い。彼の行動が痛いだけでなく、僕のような非モテ男子にとっては、「こいつ痛いなー」と笑っていられないどころか、その痛さを理解できたうえで丁寧に描かれている分読んでいるこちらにもダメージは激しく、二重に痛い。しかし、こちらとしては、彼を見守ることしかできないのである。続きが気になるー。しかし、前二作は何か不意を打った様に物語が終了しているので、今回はそういうのはないといいな・・・そういえば今回のタイトルには前二作についていた『!!』がなくなっているが、確かに『モテキ!!』とすると非常に暑苦しい。青年誌初連載ということで少し落ち着いた感じにしたのだろうか(笑)ちなみに僕は土井亜紀派。


アイアムアヒーロー 2 (ビッグコミックス)

アイアムアヒーロー 2 (ビッグコミックス)

続いて『アイアムアヒーロー』。現在二巻まで刊行。もうこれは本当にね、めちゃくちゃ驚いた。花沢健吾の作風は『ルサンチマン』や『ボーイズ・オン・ザ・ラン』(映画化されましたねー)なんかでなんとなく自分の中で前提としているものがあったんだよな。もてない男子のもがく姿みたいな。そういえば最近俺こういう漫画ばっかり読んでるな、痛い。それを見事にひっくり返された。あまりネタばれはしたくないので直接的な表現は避けるけど、単行本一巻を読み終わったあとに、確実にもう一度読み返してしまう類の漫画。一巻のラスト、まさに「どうしてこうなった」的状況。もう一度じっくりと読み返してみる。そうすると、あらゆるところに日常生活の綻び、非日常の侵入が発見できる。花沢の作風に対する自分の中の前提(ある意味花沢漫画の「日常」)、そして漫画の中の日常生活、この二つが一気にひっくり返される(臨界を迎える)瞬間は、圧巻。TVCMのタイミングなどと同様に、わけの分からない展開を見せ付けられると続きが気になるのは人間の性のようで、今一番続きが気になる漫画。


考えてみれば初連載の『ルサンチマン』も、現実世界と交錯するヴァーチャルな(非現実的な)世界の少女との関係を描いたある意味「変化球」であったことを考えれば、『ボーイズ〜』はこの人に珍しい「ド直球」だったのかもしれないなー、とにかく楽しみ。


きのう何食べた?(1) (モーニング KC)

きのう何食べた?(1) (モーニング KC)

最後、『昨日何食べた?』。まだ一巻までしか呼んでませんが、三巻まで出てます。しかし、よしながふみの描く人物はなぜこんなにも年齢不詳なのだろう。ほぼ全員、全く年齢が分からない。内容に関しては同じ作者の『大奥』のほうがずっと面白いが、この漫画を読んで感じたことが一つある。それは、家事というカテゴリの中に存在する意味での「料理」は、実はその中で随分特異なものなのだな、ということ。この漫画の大きな要素は「料理」と「ゲイ」なのだけれど、前者を描写する際に人物の思考の過程が仔細に記されていることで、「料理って、効率性とかバランスとか、本当に色々と考えてするもんなんだな」と素直に感心した。スーパーでの野菜の相場とか、作業手順とか、家事全般が(子育てをそこから除外するとして)ありふれた退屈なものとして捉えられがちな一方で、料理に関しては本当に色々と頭を働かせている。しかしあくまで描かれるのはプロの料理ではなく、家事としての料理。この視点が面白いなー。しかし、もう少し料理とゲイがつながってくるようなストーリーがあってもいいのでは。変な想像しか浮かばないけど(笑)料理をしているコマが何か三分クッキングのように独立している感じになってしまうのはやはり寂しい。その点、次の巻に期待。


どうでもいいけど、うちの家庭は両親ともども料理が得意であるが、それを教えるのが壊滅的に苦手なようで、あまり手伝わせてもらえない。少しでも失敗しそうになると彼らが勝手にやってしまう。おかげで毎日美味しい料理を食べさせていただいているが、姉と僕は全く料理ができない。四月からはどうなることやら。しかし、よしなが的な調理風景の描き方を僕がすごく気に入ったのは、それがすごくロジカルなものに見えたからだ。勿論、愛情とか経験とか、そういうのも物凄く重要になってくるのだろうけど。やってみようかな、料理。

「要は自己完結したくないのだよ、ワトソンくん」 言葉と社会への意思表明

ようやっと三回目の更新です。カテゴリを分けてて思ったんだが、恐らく僕のブログはいつまで経っても「雑記」だけのような気がするw本について言及しても、映画について言及しても、色々とごった煮になってしまって結局「雑記」みたいな。タイトルをつけるのに苦労する。一言で何かを表せ、みたいなお題は好きなのだけど。


まず、卒論完成した件。一度提出して添削されて返却され、修正して最終的に提出。


おわったー。


しかし文章というものは書いていけば書いていくほどその欠陥が露わになったり書きたいことが増えていったりと、あまりすっきりした感じがしない。様々な疑問も表出してくる。その意味では「論文に書くネタないよー」という学生によくある嘆きは、一本書いてしまえば問題なくなるように思える(勿論、そのテーマを設定することに意義があるか、現実的に自分に可能かという問題はそれでもまだ残るけど)。


書き終わってみた感想はといえば、「俺は文章が下手くそやな」ということ。それは書いて書いて書きまくるしか術はないとしても、単語を雑に使いすぎている。指摘された例の一つが「意志」と「意思」の違い。自分の論文ではこれが一緒になって使用されていた。最も明確な分類で言えば、前者が一般的に使われる「イシ」、後者が法律用語として出てくる「イシ」らしいのだが、調べてみるとどうやらそれだけでもなさそうだ。「意志」は「志」の字義通り、何かをしようと考えているその方向性を持っているが、「意思」は単に思うことのようだ。この辺はあまり厳密な区別がなされてないみたい。


その証拠に、decision-makingの訳語として充てられる「イシ決定」という四字熟語には、両方の字が使用されているのを見ることができる。んで、一般的には「意思決定」の方が多いみたいなんだけど、先ほどの俺の勝手な(といっても「志」と「思」の辞書的な意味を引いた上での定義なのであてずっぽうではないけど)定義を参考にすれば、「意志決定」のほうがすんなり通るように思う。何故なら、よく言うdecision-makingって政策とか経営方針とかに使用される言葉であって、それは常に方向性を帯びているから。まさに方向性を決定することだよね恐らく。


その意味では今の日本の政治がどういう方向性をもった「意志」なのかが見えないことは大きな問題だよな。いや、政治学科のくせに個々の政策の内容には疎いのでえらそうなことは言えんけど。ただ、最近ニュース見てても全体的な提案としての「日本をどうしたいのか」と、個々の政策の方向性といった話はあまり耳にせず、ひたすらカネの話なのは、メディアの仕業なのか、本当にそれだけなのか。もはや政治とカネですらなく、カネとカネの話。このまえiPad発表に関してtwitter東浩紀さんが「Appleは新しい生の提案をしている」と言っていたが、ただ単に新しい技術の成果をひけらかすのでなく、そこで可能になる新しい生活様式を示している点でこの発表は面白かった。製品についての細かい批判は結構あるみたいだけど、ワクワクするよね、やっぱり。


話がとんだ。そうそう、論文のこと。書いたテーマについて詳しくなった事はもとより、そういった細かい言葉の使い方にまで敏感になれたのは大きな収穫であった。あと、単純に5万字の文章なんて書いたことなかったので、その事実も自信になったとさ。卒論の話は終わり。


次、大学の就職課で「内定者アドバイザー」なるものを依頼された際に考えたこと。他人の就職活動に関して有効なアドバイスは何一つできる自信がないのだけど、と伝えたうえで、それでもいいからやってみてと担当の方に言われたのでやってみることにした。


もう一度言うが、僕は他人の就職に関して何か尤もなことを言えるほどすごい事はしていない。すごい事をしているからと言って他人に偉そうに自分語りをしてもいいってもんじゃないけど。ていうか、後輩の相談にのる際に「現代の新卒採用システムのおかしなとこ」について語ってしまいそうで怖い。ただ一つだけ言える事は、その採用システムのおかしさを自覚した上でそのシステムの上で戦う事は、なにも間違った事じゃないと思うということだけ。



既存のモデルなんかには乗っからないぜ!というモデル


最近何か、「安定志向の人間は大企業」「そんな大企業に入ってるやつは自律性がないから先がない。おれはベンチャーか起業で行く」みたいな気持ち悪い二元論が蔓延している気がしなくもない(※)「いい大学に入っていい大企業に入るというような典型的なエリートモデルは終焉を迎え、これからはひとつの企業に依存せず、自律してやっていく時代」というような言説が出てきているけれど、そんな自律の形すら学生の中では分類しやすいモデルになっているように思う。例えば、起業、社会起業、NGONPOなど。最近「社会(世界)を変える、を仕事にする」だったり「チェンジメーカー」という言葉がこれでもかというくらい氾濫していて、若干食傷気味だ。もちろん、このような活動には僕自身物凄く興味があって、そういった活動が活発になってくれることを心から望むのだけど、そこに興味を持つ自分の根本を考えてみると、案外「社会を変えたいという意志を持つ(またはそういう活動を行う)ことで『自分』を変えたい」という欲望のほうが優越していたりする。正直な話。自分探し、としてのボランティアと似たような構造。やはり自分はマザーテレサのような人間にはどう頑張ってもなれそうにない。


論文を書いていたり、社会問題に対して解決のモデルを考えたりして一番に思うことは、「自分の本気度に対して、対峙している問題の深刻さ(複雑さ)がでかすぎる」ということ。最近はそんなに深刻に考えずに、楽しむことで社会を変えてやろうという動きもあるけどね(これはすごく面白そう)。んで、その問題に対して「とにかくグダグダ言ってねーで行動」ていうのは確かだけど、行動していても幸せになってるのは楽しんでる自分と、その周りにいる人だけだったりする。これはすごく難しい。


少しこういう問題に対して考えたことのある人であればそんなのは語りつくされた問題だとされる、「俺、社会にとっていいことしてるんだぜ」欲と本当の社会貢献のジレンマ。前者が強くなりすぎると、社会起業が普通の企業に比べてかっこよく見えるんよね。社会を良くするためにビジネスモデルを回していると言っているわけだから。ただ、そのことと本当に社会にとっていいことになっているかはまた別の問題だ。ひたすら利益を追求して企業をでかくすることでできるだけ多くの人間を豊かにしているかもしれないし。


ゆえ、「俺達が」世界を変えている!というよりは、「なんかみんなで楽しいことやっていたらいい方向に変わっていた!」となるような形を作るほうが面白そう。前者はなんか、「あいつらが」世界をダメにしているぜみたいな陰謀論に変わっていきそうで辛気臭いので。


だからもう、環境や背負っている肩書きによってその人の利他性みたいなのをはかるのは、やめ。どこの環境にいても利他的な人は利他的だし、社会に貢献していると謳ってはいても自分がかわいい人はいる。置かれた環境によって自分が判断されるのではなく、まずその環境でどう頑張っているかだす。役所の人は硬い人、大企業の人は安定志向、理系の人はコミュニケーション能力なし、社会を変えるとか言ってる人は利他的、ヲタクはきもいw、こういう括りは全部、白紙に。


なんか単純な話をわざわざ分かりにくくしているようで申し訳ありません。そして、これは誰に憤りがあるわけでもなく、自分個人のスタンスでありんす。そして相変わらずブログ使いこなせない・・・本のリンクとか見出しとかつけてもっと賑やかにしないと誰も読んでくれないというのは分かってはいるんですが。あと、タイトルのワトソン君ネタ、古すぎるけど結構好きなのよね。着々とオヤジ化している。


※この印象論、気をつけないとね。よくやってしまうんだけど、「こういうふうに言っている奴がいる」という仮想の論敵を作り出して批判する、といった陥穽。実際はイメージに過ぎなくて、こんなこと言っている人なんて実は誰一人いないということもありえる。

「原風景」ってなんなん。 風景写真と『マイマイ新子』考

なんか一向に「これだ!」というネタは見つからないが、つらつら書いてみないと何も始まらないので書いてみる。


先日、恵比寿の東京都写真美術館において、「出発―6人のアーティストによる旅」という展示を見た。写真に関しては門外漢なのだけれど、尾仲浩二さんという写真家が日本の地方を旅した時の写真を展示していてふと「原風景」というものについて考えた。その場所に行った事はないのに、何故か懐かしさを感じる写真だったからだ。そもそも原風景ってなんだろう、とちょっと広辞苑とか引いてみる。


げん-ふうけい【原風景】
・・・心象風景のなかで、原体験を想起させるイメージ。


原体験を「想起させる」ということは、過去の経験や住んでいた地そのものでなくとも、その風景そのものが感情のフックになって自分の原体験が呼び起こされればいいわけだ。そうなると、人間は結構適当な生き物だなーということになる。東京生まれの東京育ちが自然豊かな風景を見てノスタルジーを感じる事だってあるだろうし。


そもそも、「原風景」を語る際は国単位とされていることが多いが(日本の原風景、とか良く耳にする)、それぞれの日本人が生活している環境は違うのに、どうしてその風景を共有できているのだろう。そもそもどの程度共有されているのだろう。


それは多分、「みんなそう思ってるっしょ!」と明確に規定できるほど具体的なものではないが、「適当に想起してるだけだろ」と言い切れるほど他人に対して閉鎖的なわけでもないという、物凄く曖昧なイメージ。人々の共感が他人に対してどの程度まで効果を持っているのか、という時に出てくる話と一緒。


そしてこの原風景、おそらく「音=聴覚」や「におい=嗅覚」(というか五感すべて)などもそれに値するものがあるように思う。ほんとに印象論で語らせてもらえば、


視覚>聴覚>嗅覚


の順に他人と共有できる領域が大きい、という印象。印象だけの仮説だと少し分かりにくいので弱々しい根拠を引くとすれば、この領域は人間が外界から情報を得ている量と比例している。つまり、視覚から取り入れる情報は膨大であるがゆえ、「この映像は得てしてこういう意味を指している」というその文化特有の意味付けが成されやすい。(それを巧みに使ったのが最近の「なんか雰囲気カッコいい」的なPVとかの映像だと思うんだけど、これはまた今度にしよう)聴覚にも「懐かしい(と感じる)音」は存在するだろうが恐らく視覚ほど情報の多いものではない。


こんな話をしてて思い出すのが、昔なんかの食品のCMで、「においを視覚でお届けしています」とかいうのがあったが、この意味でも嗅覚に関してはメディアなどで多くの人間に一斉に情報を与えることができないのが、共有する領域の少ない原因にもなるのかな・・・なんて思ったり。しかし一概には言えず。


そしてこの「虚構」、といってもよい「原風景」をひとひねりして描写した工夫に素直に感動できたのが、映画『マイマイ新子と千年の魔法』である。このアニメよかったー。山口県防府市を舞台にした片田舎で、小学生の新子と家族・友人達が織り成す物語(ストーリーはネタばれしそうなので省きます)。この映画は、「日本の地方の古き良き原風景」という「どこにあるかも確認できないのにみんなが思い描くような懐かしい世界観」を作り上げている事に成功しているのだが、そんな『Always 三丁目の夕日』的なノスタルジー映画の主要素とは決定的に違うもう一面を持っている。


それは、新子の豊かな想像力によって創造される千年前の町の様子と、新子が暮らしている現実の生活が渾然一体となってスクリーンに描かれている事で、風景の虚構性が二重性を帯びているということだ。そして、『Always』によって想起されうる「(ありもしない)昔は良かったなー」感情が、『新子』にはなかったように思い、僕が圧倒的に後者を支持するのも、この要素ゆえ。


『Always』はそれら懐かしい物語との間に、現実に存在する「東京タワー」の建設過程のカットを挿入することで、「こんな風景、昔の日本にはあったんだよ」という意味付けがなされる(このタワーのうそ臭さがそのままこの映画の虚構性を物語っているという視点もないわけではないだろうけど)。『新子』は全く逆。千年前の人々の生活と一緒に描かれることで、新子の日常は確実に「映画の中のこと」だと念を押される。


言うなれば、前者は「本物っぽいけど残酷な作り話」であり、後者は「フィクションと分かっているウェルメイドな作り話」だと感じた。



写真展示の話をしてたのに、一気にそれたなー。しかもなんと切れ味の悪い文章!とにかく、写真展示に関しては尾仲さん以外にも百瀬俊哉さんの作品は特に素晴らしかった。あと、同時開催していたブレッソン木村伊兵衛の展示も見てきたのだけど、お互いを撮った写真がとても素敵であった。


マイマイ新子』はホント観てない人は観てください。こんなブログ観てる人5人もいないだろうけど(笑)終始低いアングルが新子と一緒にワクワクドキドキしてるみたいで素晴らしいんだこれが。



今回の文章は難しいこと言っているようで実は回りくどいだけ、という最悪の滑り出しではあるが、とにかく更新したぞー!次回からはもう少しすっきりした文章を書くので、長い目で見てやってくださいな。以上、昨日ゼミの子に連れられてMay'nという女性歌手の武道館LIVEに行ってから、「pink monsoon」という曲をヘビロテしているtty_3でしたー。本当に名曲なんだこれが。アニソンに嫌悪感がある方は、その概念を捨て去って聴いて欲しいんす。では。

なんか、自分が言及した映画・音楽・作品とか勝手にリンク貼られないんかね、そんなにうまいこといかないか。もうちょっと勉強してみます。