文化庁メディア芸術祭 −身体性とメディア、制約条件の利用


早めに帰宅したのでブログを書く。近頃またまた滞っていたので。滞った理由は何かというと、多分僕はカチッと長い文章を書かなければいけない、という変なこだわりがあるからだ。なので、イベント1つにつきエントリー1つくらいで気軽に書いていくくらいが丁度いいのかも。


乃木坂の国立新美術館で開催されていた文化庁メディア芸術祭に行ってきた。もう一週間近く前だけど。エンターテインメント・アニメーション・ゲーム・アート・漫画など、様々な分野のメディア(と括っていいのかすら分からないほど幅広い)作品群を表彰し、展示していた。そこで思ったことをいくつか。


まず、ゲーム分野。最近はあまりゲームをしないのだけれど、ここにきて驚かされた。もうどこからどこまでを「ゲーム」と呼んでいいのか分からない。昔はやっぱり、(TV)ゲームってコントローラを握った両手で操作するものだったじゃないですか。動いているのはせいぜい手首より先。それが、Wiiやなんやの登場で、それをプレイしている人間(体験させてもらった俺も勿論)は、全身動いているんですよ。当たり前やないか、といわれればそうなんだけど、これってすごいことだなあと思った。

僕は今23歳なんですが、僕らが子供の頃はよく周りの大人に「ゲームばっかりやってないで外で身体動かして遊んで来い」とかいわれたりした事から、ゲームと人間の身体性って正反対の位置にあったはず。そのゲームが、ぐるっと一周回ったうえで、身体性を獲得している。それは単なるTVゲームではなくて、スポーツであり、コミュニケーションツールだ。こういったゲームをプレイする人間は、「仮想空間にのめりこむ」といった認識はもうしないと思う。どちらかといえばもう「自分の動作と映像のキャラクターがシンクロしている」といった認識なのでは。ちょっと乱暴な言い方になるけど、「ゲーム脳=現実と仮想の区別がつかなくなる」とかいう、昔少年犯罪が起こると決まってマスコミに引っ張り出された話ももうなくなるわけだ。これは面白い。

なんか新しいことだと感じて書き始めたのに、いざ自分が言葉に落としてみると実に当然のことを書いているな。文章表現能力が異常に低い。


次に、メディア芸術祭の「メディア」という言葉に関して。勿論、メディア関連の作品を展示することで「メディア」芸術祭を名乗っているのだろうけど、おそらくこの場自体がもはやメディアだった。その一つに、ツイッター広場という場所がある。そこでは、メディア芸術祭の作品に関する感動や感想、対話がリアルタイムで共有されており、この展示という場自体がそこを訪れた人、そこにはいないけれどもツイッター上の空間に存在している人を繋ぐメディアになっていた。間違いなく。


三つ目、この展示の前から物凄く話題になっていた、サガミオリジナル002のキャンペーン「LOVE DISTANCE」に関して。東京と福岡で遠距離恋愛中の男女が自宅から走り始めて最後に日本の真ん中で出会うまでを追ったキャンペーン。評判どおり、面白いよなあこれ。広告の専門知識に関しては詳しい事はよく分からないのだけれど、「話題だけを作って何の広告かは最後まで伏せておく」というのは今までにも手としていくつかあったはず。そういうのを専門用語でなんと言うかは知らないけど、「かくされてじらされると人は余計に知りたくなる」という心理を利用した広告効果。ただ、この広告の見事なところは、「コンドームの広告は、日本という環境では大々的にTVCMしにくい」という制約条件を逆手に取るためにこの手法を使用したところだ。

僕は別に広告代理店に就職してこれから面白い広告を作ってやるぜーとかそういう人間ではないんだけど、このキャンペーンからは大いに学ばせてもらった。人間、大抵壁にぶつかると「この問題がなければ」とか「こういう制限やしがらみがなければ」とかいう考えが先にたつんだけど、その制約条件をひっくり返して逆に利用するというのは見事。文句ばっかいってても仕方ないんだな。逆に今の条件の中で何ができるかだな、と妙に勇気付けられるキャンペーンであった。

こんなもん。通して思った事は、ここに展示されているメディア作品の製作者は、別に俗にいう「メディア」関係のお仕事に就いている人だけではない、ということ。つまり、個人での作品製作も可能になっている現在、どこから面白いメディアアートがうまれてくるか分からないし、どこからうまれてくるか分からないからこそ面白くなってくる。そういう状況の中、その道の「プロ」がどういう働きをするのか、そしてそれら生み出された作品群をオーガナイズして盛り上げていく仕組み(この芸術祭もその一つなのだろうけど)がどこから出てくるかが鍵なのかも。とにかく面白いイベントだったー。