「要は自己完結したくないのだよ、ワトソンくん」 言葉と社会への意思表明

ようやっと三回目の更新です。カテゴリを分けてて思ったんだが、恐らく僕のブログはいつまで経っても「雑記」だけのような気がするw本について言及しても、映画について言及しても、色々とごった煮になってしまって結局「雑記」みたいな。タイトルをつけるのに苦労する。一言で何かを表せ、みたいなお題は好きなのだけど。


まず、卒論完成した件。一度提出して添削されて返却され、修正して最終的に提出。


おわったー。


しかし文章というものは書いていけば書いていくほどその欠陥が露わになったり書きたいことが増えていったりと、あまりすっきりした感じがしない。様々な疑問も表出してくる。その意味では「論文に書くネタないよー」という学生によくある嘆きは、一本書いてしまえば問題なくなるように思える(勿論、そのテーマを設定することに意義があるか、現実的に自分に可能かという問題はそれでもまだ残るけど)。


書き終わってみた感想はといえば、「俺は文章が下手くそやな」ということ。それは書いて書いて書きまくるしか術はないとしても、単語を雑に使いすぎている。指摘された例の一つが「意志」と「意思」の違い。自分の論文ではこれが一緒になって使用されていた。最も明確な分類で言えば、前者が一般的に使われる「イシ」、後者が法律用語として出てくる「イシ」らしいのだが、調べてみるとどうやらそれだけでもなさそうだ。「意志」は「志」の字義通り、何かをしようと考えているその方向性を持っているが、「意思」は単に思うことのようだ。この辺はあまり厳密な区別がなされてないみたい。


その証拠に、decision-makingの訳語として充てられる「イシ決定」という四字熟語には、両方の字が使用されているのを見ることができる。んで、一般的には「意思決定」の方が多いみたいなんだけど、先ほどの俺の勝手な(といっても「志」と「思」の辞書的な意味を引いた上での定義なのであてずっぽうではないけど)定義を参考にすれば、「意志決定」のほうがすんなり通るように思う。何故なら、よく言うdecision-makingって政策とか経営方針とかに使用される言葉であって、それは常に方向性を帯びているから。まさに方向性を決定することだよね恐らく。


その意味では今の日本の政治がどういう方向性をもった「意志」なのかが見えないことは大きな問題だよな。いや、政治学科のくせに個々の政策の内容には疎いのでえらそうなことは言えんけど。ただ、最近ニュース見てても全体的な提案としての「日本をどうしたいのか」と、個々の政策の方向性といった話はあまり耳にせず、ひたすらカネの話なのは、メディアの仕業なのか、本当にそれだけなのか。もはや政治とカネですらなく、カネとカネの話。このまえiPad発表に関してtwitter東浩紀さんが「Appleは新しい生の提案をしている」と言っていたが、ただ単に新しい技術の成果をひけらかすのでなく、そこで可能になる新しい生活様式を示している点でこの発表は面白かった。製品についての細かい批判は結構あるみたいだけど、ワクワクするよね、やっぱり。


話がとんだ。そうそう、論文のこと。書いたテーマについて詳しくなった事はもとより、そういった細かい言葉の使い方にまで敏感になれたのは大きな収穫であった。あと、単純に5万字の文章なんて書いたことなかったので、その事実も自信になったとさ。卒論の話は終わり。


次、大学の就職課で「内定者アドバイザー」なるものを依頼された際に考えたこと。他人の就職活動に関して有効なアドバイスは何一つできる自信がないのだけど、と伝えたうえで、それでもいいからやってみてと担当の方に言われたのでやってみることにした。


もう一度言うが、僕は他人の就職に関して何か尤もなことを言えるほどすごい事はしていない。すごい事をしているからと言って他人に偉そうに自分語りをしてもいいってもんじゃないけど。ていうか、後輩の相談にのる際に「現代の新卒採用システムのおかしなとこ」について語ってしまいそうで怖い。ただ一つだけ言える事は、その採用システムのおかしさを自覚した上でそのシステムの上で戦う事は、なにも間違った事じゃないと思うということだけ。



既存のモデルなんかには乗っからないぜ!というモデル


最近何か、「安定志向の人間は大企業」「そんな大企業に入ってるやつは自律性がないから先がない。おれはベンチャーか起業で行く」みたいな気持ち悪い二元論が蔓延している気がしなくもない(※)「いい大学に入っていい大企業に入るというような典型的なエリートモデルは終焉を迎え、これからはひとつの企業に依存せず、自律してやっていく時代」というような言説が出てきているけれど、そんな自律の形すら学生の中では分類しやすいモデルになっているように思う。例えば、起業、社会起業、NGONPOなど。最近「社会(世界)を変える、を仕事にする」だったり「チェンジメーカー」という言葉がこれでもかというくらい氾濫していて、若干食傷気味だ。もちろん、このような活動には僕自身物凄く興味があって、そういった活動が活発になってくれることを心から望むのだけど、そこに興味を持つ自分の根本を考えてみると、案外「社会を変えたいという意志を持つ(またはそういう活動を行う)ことで『自分』を変えたい」という欲望のほうが優越していたりする。正直な話。自分探し、としてのボランティアと似たような構造。やはり自分はマザーテレサのような人間にはどう頑張ってもなれそうにない。


論文を書いていたり、社会問題に対して解決のモデルを考えたりして一番に思うことは、「自分の本気度に対して、対峙している問題の深刻さ(複雑さ)がでかすぎる」ということ。最近はそんなに深刻に考えずに、楽しむことで社会を変えてやろうという動きもあるけどね(これはすごく面白そう)。んで、その問題に対して「とにかくグダグダ言ってねーで行動」ていうのは確かだけど、行動していても幸せになってるのは楽しんでる自分と、その周りにいる人だけだったりする。これはすごく難しい。


少しこういう問題に対して考えたことのある人であればそんなのは語りつくされた問題だとされる、「俺、社会にとっていいことしてるんだぜ」欲と本当の社会貢献のジレンマ。前者が強くなりすぎると、社会起業が普通の企業に比べてかっこよく見えるんよね。社会を良くするためにビジネスモデルを回していると言っているわけだから。ただ、そのことと本当に社会にとっていいことになっているかはまた別の問題だ。ひたすら利益を追求して企業をでかくすることでできるだけ多くの人間を豊かにしているかもしれないし。


ゆえ、「俺達が」世界を変えている!というよりは、「なんかみんなで楽しいことやっていたらいい方向に変わっていた!」となるような形を作るほうが面白そう。前者はなんか、「あいつらが」世界をダメにしているぜみたいな陰謀論に変わっていきそうで辛気臭いので。


だからもう、環境や背負っている肩書きによってその人の利他性みたいなのをはかるのは、やめ。どこの環境にいても利他的な人は利他的だし、社会に貢献していると謳ってはいても自分がかわいい人はいる。置かれた環境によって自分が判断されるのではなく、まずその環境でどう頑張っているかだす。役所の人は硬い人、大企業の人は安定志向、理系の人はコミュニケーション能力なし、社会を変えるとか言ってる人は利他的、ヲタクはきもいw、こういう括りは全部、白紙に。


なんか単純な話をわざわざ分かりにくくしているようで申し訳ありません。そして、これは誰に憤りがあるわけでもなく、自分個人のスタンスでありんす。そして相変わらずブログ使いこなせない・・・本のリンクとか見出しとかつけてもっと賑やかにしないと誰も読んでくれないというのは分かってはいるんですが。あと、タイトルのワトソン君ネタ、古すぎるけど結構好きなのよね。着々とオヤジ化している。


※この印象論、気をつけないとね。よくやってしまうんだけど、「こういうふうに言っている奴がいる」という仮想の論敵を作り出して批判する、といった陥穽。実際はイメージに過ぎなくて、こんなこと言っている人なんて実は誰一人いないということもありえる。