「今」が絶妙なバランスの上に成り立っていることを感じるための1/365


「記念日」の存在が嫌いだった。いや、可能であれば、今でもあまり話題にはあげたくない。


別に、大切なことがあった日というのを、365で割った後に思い出さなければならない理由など何処にもないのだ。
例えばある出来事の20周年を記念したとしても、それは「丁度20年ですね」と言いやすいからであって、それ以上
でも以下でもない。要は、


365+365+365+366+365+365+365+366+365+365+365+366+365+365+365+366+365+365+365+366 = 7305日 = 20年


ということであって、ある出来事の7305日後が、7306日後と比べて特別な価値を持つだとか、そんなことは断じて
信じたくないのだ。


先日の2012年3月11日だってそう。「震災から丁度1年」を契機に思い出すことは何も悪いことではないのだけれど、
その一日が極端な特殊性を持ってもらっては都合が悪い。次の日だって、その次の日だって、考え続けなければならない
ことがある。



が、しかし。本日3月16日。日本人の多くがその環境を変える4月に向けての準備期間。誠に私的な事情により、
「記念日」の実用的な意味を知る。忌憚すらしかけていた変わり映えしない日常が、奇跡的なバランスの上に成立
する期間限定の環境であることを知る。


まこと、長い間接していた地面が極めて不安定な足場であったことに気付いたかのように、そのあやうさと、自らの
愚鈍さに、驚く。


「毎日が等しく貴重である」と言葉では分かっていても、どうも気持ちが奮い立たない時、他人を取り巻く周囲の環境
ばかりが素晴らしく見えてしまう時、ともすれば、他人の人生を生きているかのような当事者意識の欠如に襲われる時。
365日に一度、ある出来事について、「メモリアル」を打ち込むことが、生活を救う。



だから、ここに、この何の変哲もない3月16日に、これ以上ない「日常的な」日常が連綿と続いている事実に
目を奪われて見えなくなっている絶妙なバランスの「現実」を感じるための、楔を刻む。