もう一日を生きる蝉にフラッシュバックする、ストックホルム・シンドローム 『八日目の蝉』観てきた。



ストックホルム症候群ストックホルムしょうこうぐん、Stockholm syndrome)
・・・精神医学用語の一つで、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことをいう。
Wikipediaより引用)


「血がつながっている家族だから」とか「腹を痛めた我が子だから」とか、そんな関係性を貶める気はこれっぽちもないのだけれど、血縁関係が尊いものだということは、もう、なんか、語り尽くされてますよね。『八日目の蝉』(映画&小説)は、そんな絶対的な人間関係(絶対的ゆえに人々がそのうえにあぐらを書いてしまうような関係)を相対化しつつも、一周回って人と人とのつながりの尊さを確かめるような方向性になっていると思います(なんか凄く安っぽい言い方になってごめんなさい)。


この作品は、不倫相手の正妻との子供(本名エリナ、希和子は「薫」と名付けた)を誘拐した女・希和子と薫との約4年間の軌跡と、事件後、大学生になったエリナ(薫)のその後を交互に映し出す構成をとっておるわけですが、そこではひたすらに、血縁以外の関係に擬似的な親子/家族の愛を見いだそうとして(社会的)悲劇を招く女と、血縁関係及び「普通の」家族を作ることに執着をし過ぎて壊れていく母の像が描かれています。


原作は角田光代さんです。僕はこの作家さんが好きなので、大抵の作品は読んでいるのですが、思えば角田光代という作家は、作品ごとに角度は違えど毎度この「家族コミュニティに憧れて、擬似的にでもそれを作ろう(再生しよう)ともがく他人同士 or 血のつながっている者同士なのに、ふとした瞬間相手に「赤の他人」性をみてしまう家族」をテーマにしているように思います。両者は全く別のベクトルを持っていながら、その実コインの表裏のような関係なように思います。

『キッドナップツアー』では、娘との別居を余儀なくされた父親が娘を誘拐して一夏をともに過ごした結果、父が娘に対して「おまえがどういう大人になろうと、それは俺のせいじゃない(うろおぼえ)」というような感動の家族モノとは似ても似つかぬ他人行儀な台詞を吐いていますし、『対岸の彼女』では、住み込みバイトや家出などでいっときだけ関係を密にしていく女学生二人(二人とも、家族的な関係には不満を持っていたような憶えがあります)の姿が描かれています*1し、『空中庭園』では、「隠し事なんかないはずの家族を群像劇的に描いてみたら、実は赤の他人のように別々の秘密や関係を持っていた」という構成をとっています。

要するに、これらの物語からひしひしと考えさせられる(ように思う)ことは、「*家族って、同じ血が流れてるっていう先天的な理由だけから尊いとされるんであれば、別にもっと濃い関係って、あるんじゃねーの(そういう運命的なものだけが理由じゃないんじゃないの)」ということです。今回の『八日目の蝉』で言えば、家族=本当の両親/別にもっと濃い関係=希和子と薫がそれにあたります。

で、「あの誘拐事件がなければ普通の家族としてやってこれたはずなのに、全部あの女のせいだ」として無意識的に拒み続けていた希和子の存在を、エリナ(薫)が赦すラストシーン。彼女が「あなた(=希和子)のこと、ほんとは憎みたくなんてなかった」と叫ぶのは、上記の「*家族って〜」の疑問に自分なりの結論を出して、希和子を赦した瞬間なんではないでしょうか。尊いことがはじめから約束されている血縁関係ではなく、道徳的に肯定することが許されていないストックホルム・シンドロームが、頭をもたげる瞬間。あの瞬間は、映画でも原作でも最高のハイライトで、なんだか解放された気分になります。(いや、勿論誘拐は犯罪ですよ。ダメ、絶対)


実は、映画の中では上記と似た構成のハイライトがエリナ(薫)と誘拐事件を調査するフリーライター千草との間でもう一つあるのですが、それを書こうとすると、この作品のもう一つの特徴=幼少期でのエンジェルホーム(現実世界から半隔離された状態で自活する女性限定のボランティア団体(その実はエンジェルさんなる教祖率いる宗教団体))での生活を説明する必要があるので、省きます。そこでもやっぱり、「普通の」家族にはなりきれなくて、「女二人で母になる」といった関係を夢想したりしています。


映像の部分で気付いたのですが、この映画では、登場する女性が対話をしているとき、頻繁に視線が相手を観ていないような撮り方をしています。二人の人間が対面している所を一人ずつ別々に撮ることで、二人が向かい合って会話をしているように見せる方法を切り返しというのですが、作品中、カメラが切り返した瞬間にまるで相手の視線がもう一方を向いているように見えない。意図的なのか否かは分かりませんが、その撮り方もあって、登場する女性陣が誰一人正気に見えないという違和感があります。


それから、劇団ひとり演じるエリナ(薫)の恋人役及び、昔希和子と不倫をしていたエリナの実父が、子供の話をされた瞬間、両者共に「『ちゃんと』してからにしよう、それまで待ってくれ」とその場を逃れようとするのですが、こういう時の男の「ちゃんとして」発言の「ちゃんとしてない」レベルは凄まじい。これは、映画の中で最も恐ろしいシーンですよ(男性限定)。男としては気をつけたい・・・

ちなみにこの映画では、男性陣は完全に蚊帳の外です。実父は、誘拐から保護されたばかりのエリナのことを「この子」と呼んでいますし、大学生になってバイトを掛け持ちしながら自活しているエリナの様子を観に行った父は「親ぶるなんて、お父さんらしくないよ(この一文だけみると「親」と「お父さん」の語義矛盾ですが、映画全体を通してみると、この台詞一つで作品のテーマを表現できている気もします)」という台詞を浴びせられています。


なにはともあれ、原作、映画ともに面白いので、まだの方は是非どうぞ(この説明だけじゃ何がなんだか分からないと思うので)。映画では、舞台の一つである小豆島がとても美しく描かれていますし、それだけでも見る価値があります。


余談ですが、ちょっとクレイジーなライター、千草を演じる小池栄子の演技が素晴らしすぎてのけぞった。この人、どこまで役の幅広げたら気が済むんだろう(どれも神経質そうな役柄だけど)。この人に注目してこの映画観ても損しない気がします。


映画オフィシャルサイトはこちら

*1:対岸の彼女』小説中ではこの二人のうちの一人[Aとします]が大人になってから、思い出を語る中でこのエピソードが登場するわけですが、このAの現在の性格は、もう片方の女の子[Bとします]にそっくりなのです。大人になってからのエピソードと学生時代のエピソードが交差して語られる中で、二人がともにした時間は極めて短い間ではありながらも、Aの心にはいつもBの人間性がシンクロしているように思えてきます。この構成は本当に見事なので、未読の方は是非ご一読ください。