「今」が絶妙なバランスの上に成り立っていることを感じるための1/365


「記念日」の存在が嫌いだった。いや、可能であれば、今でもあまり話題にはあげたくない。


別に、大切なことがあった日というのを、365で割った後に思い出さなければならない理由など何処にもないのだ。
例えばある出来事の20周年を記念したとしても、それは「丁度20年ですね」と言いやすいからであって、それ以上
でも以下でもない。要は、


365+365+365+366+365+365+365+366+365+365+365+366+365+365+365+366+365+365+365+366 = 7305日 = 20年


ということであって、ある出来事の7305日後が、7306日後と比べて特別な価値を持つだとか、そんなことは断じて
信じたくないのだ。


先日の2012年3月11日だってそう。「震災から丁度1年」を契機に思い出すことは何も悪いことではないのだけれど、
その一日が極端な特殊性を持ってもらっては都合が悪い。次の日だって、その次の日だって、考え続けなければならない
ことがある。



が、しかし。本日3月16日。日本人の多くがその環境を変える4月に向けての準備期間。誠に私的な事情により、
「記念日」の実用的な意味を知る。忌憚すらしかけていた変わり映えしない日常が、奇跡的なバランスの上に成立
する期間限定の環境であることを知る。


まこと、長い間接していた地面が極めて不安定な足場であったことに気付いたかのように、そのあやうさと、自らの
愚鈍さに、驚く。


「毎日が等しく貴重である」と言葉では分かっていても、どうも気持ちが奮い立たない時、他人を取り巻く周囲の環境
ばかりが素晴らしく見えてしまう時、ともすれば、他人の人生を生きているかのような当事者意識の欠如に襲われる時。
365日に一度、ある出来事について、「メモリアル」を打ち込むことが、生活を救う。



だから、ここに、この何の変哲もない3月16日に、これ以上ない「日常的な」日常が連綿と続いている事実に
目を奪われて見えなくなっている絶妙なバランスの「現実」を感じるための、楔を刻む。

「幅」のあるアドバイスの妙 〜みかんを美味しくする魔法の例〜


自分の周囲の人に、「Aすると、Bになるらしいよ。」というアドバイスをして、その人の行動を観察するのが好きだ。但し、Aには、相手の行動の「幅」を許しておくこと。その場でバチッと相手の取る行動が決まってしまっては、その人らしさが見えてこない。(それでも、こちらが思いもしなかった行動に出る人は、若干名いるのだけれど・・・)


例えば、僕が一番よくやるのが、一緒に「みかん」を食べようといている時に、「みかんって、食べる前に少し刺激を与えると、甘くて美味しくなるらしいよ」の一言。この助言に対する相手の行動が、実に多種多様で面白い。ちなみに、この噂は口から出任せではなく、どうやら本当の話らしい。子どもの頃その話を聞いてから、自分では毎度のように実践している。


僕が最初にこの話を聞いた時、みかんをお手玉みたいにして、ポーンポーンと上に放ったのを覚えている。お節介なことに、実家に山と積んであるみかん全てをこれ見よがしに放った。お手玉なんて二つでしか出来ないくせに。そんな話は置いておいて、おそらく「みかん刺激アドバイス」暦に関しては、若くして相当な経験を積んでいる部類に入るであろう僕の経験から、今まで見たことのある行動を分類してみる。


① 一番多いのが、僕と同じお手玉アクションだ(これをお手玉式」命名する)。このタイプの人は、よく言えば素直な人、悪く言えば「普通の人」かもしれない。きっと、他人の主張に流されやすい部分が少なからずあると思う。お手玉式の人と一緒にいると、すこしいたずらしたくなるかもしれない。


② 次に見たのが、軽く揉んでほぐす人(これは「マッサージ式」命名する)。僕の経験では、マッサージ式を披露する人は、マナーのしっかりした年配の方が多いように思う。やはり、「食べ物を投げたりしてはいけません」の厳格なルールに従い、ゆっくりと、しかし確実に、みかんに刺激を与えているのである。マッサージ式の人と一緒にいると、なんだかとても安心する。


③ お調子者の人は、きっとこっちに向かって投げてくるだろう(これを「キャッチボール式」命名する。小学生とかにやらせると、時折「ドッヂボール式」になってしまったりもするが、、、)。大人になってからは、こういう人を見る機会は少ないが、そんな人はきっと、少年のような心を持ちつづけていることだろう。キャッチボール式の人と一緒にいると、賑やかで楽しいけど、いつもこの調子だとちょっと面倒くさい。


④ びっくりしたのが、机の上を転がす人を見た時である(これを「ボーリング式」命名する)。ボーリング式を見たのは僕の長い経験でもたった1人だけであるが、この人はかなりの変わり者だったと思う。みかんの方も、食べられたり、投げられたりはしても、まさか自分が転がされる立場になるとは、思っても見なかったのではないか。ボーリング式の人と一緒にいると、新しい発見が沢山あるかもしれない。


⑤ もっとびっくりしたのが、片手に乗せたみかんをもう一方の手で撫ではじめた人を見た時だ(これを「甘やかし式」命名する)。甘やかし式の人は、きっとほめて伸ばすのが美味いタイプだと思う。その人に子どもができて、あるいは飼っているペットが、いたずらをしてしまった時。びしっと刺激を与えてやらんといかん、とは思いつつも、ついつい甘やかしてしまう。そんな優しい人な気もする。


サンプル数を増やせば、もっと新しいタイプも発見出来るのではないか。想定されるのは、みかんに魅惑的な言葉を投げかけて、精神的に刺激を与えるタイプ、とか。この人はきっと、人を動かすのは、力ではなく意志である、と知っている人、なのかは甚だ疑わしいが、こんな人に出会ってみたいものである。ベンチャー企業の社長や成功者の糟糠の妻とかにいそう。人をmotivateするのがうまい人。


あの子は優しく撫でてくれるかな。あいつはどうせ投げるだろうな。ああ、全国のお茶の間のコタツにご一緒させて欲しい。ついでに夕ご飯もご馳走して欲しい。そして、おなかもいっぱいになった食後、芸人がひな壇に並んだバラエティ番組を放送するテレビを横目に、コタツの真ん中に置かれたみかんの山から一つ手にとって、僕からこう呟くのだ。


「みかんって、刺激を与えると甘くて美味しくなるらしいですよ?」

渋滞した頭の中の、交通整理 -風邪っぴきとネコ型ロボット-


土曜の朝、いやに身体が重いと思ったら、微熱が出ていた。とりあえずベッドでじっとしていることにする。僕が風邪を引く時期というのは大抵決まっていて、季節の変わり目の、それも必ずと言っていいほど休みの始まりに、引く。いや、本当に季節の変わり目に引いているかどうかなんて、実際のところ分からない。昔、風邪を引くといつも「季節の変わり目で気温なんかも安定しないしねー」とかなんとか、母親が理由をつけていたのに起因するのかもしれない。それが本当に季節の変わり目なのかどうか、確かめてみた試しは、一度もない。


風邪で寝込んでいる時、又は、二度寝三度寝を繰り返している時、要は、脳みそが求めている量よりも多くの惰眠をむさぼっている時というのは、脈絡もない考えが、頭の中そこかしこに浮かぶ。多くの人がほろ酔いの時になる状態に似ているかもしれない。今回もそうだった。最初は、映像。見るに耐えない下手糞なタッチで描写された動物達が、視界の中でふわんふわん動き回る。不思議と、不快ではない。次に、音声。およそ音楽とは呼べないような音だったように思う。そんなこんなで、そんな文脈もくそもない情報が、のべつまくなしに頭の中に流れては消えていく。


一度布団から抜け出して、小説を読んでいる時に、物語の登場人物達が「未来は所詮現実から地続きのものでしかないのか、それとも未来が現実を裏切る瞬間が存在するのか」とかいう議論を白熱させている場面に出くわした。「未来」という単語を聞くと、夢見がちな想像をしてみることが多いからか、それが「完全に現実の地続きだ」と言われてしまうと、そこにひどく味気なさを感じてしまう。ただ、「未来」が現実と独立して存在していると容易に想像できるほど、人間の頭の中は暇ではない気もする。そういえば、少し前にニュースサイトの記事で、「タイムトラベルは存在し得ない」という理論を提唱した人の話が挙がっていたが、随分と手厳しいことをしてくれたもんである。そんな理論が確実視されれば、僕らは少し大きい引き出しのついた机を用意して、22世紀からやってくる青くてころころした愛らしいネコ型(とは到底呼べそうにもない)ロボットの存在を待望することも出来なくなってしまう。それは実際に「それが起こる」ことが重要なのではなく、「そんなことが起きそうな可能性が残されている」ことこそが重要なのだ。そんなことを考えているうちに、頭が疲れてしまった。少なくとも、未来のことを考えるのは、風邪っひきには適していない。逆に言えば、当面の生活に直結しないことについて馬鹿まじめに考えられるとき、人間はよほど元気な証拠なのかもしれない。


夜中、熱は引いてきたものの、喉の荒れがひどい。朝から何も口にしていなかったことに気付き、朦朧とした意識の中でベッドを抜け出してコンビニへと足を運ぶと、見たこともないような光景がそこに広がっていた。喉の渇きのせいか、コンビニに並べられた飲み物が、それぞれ違う色をして光って見える。どれを飲んでも、そろいもそろって美味しそうだ。いくらでも飲める気がする。久しぶりに使用するコンビニの買い物カゴを手にした僕は、清涼飲料水、、炭酸飲料、オレンジジュース、リンゴジュース・・・と迷わずカゴに放り込む。隣で「今夜の一本」を吟味していた父子には、さぞ、いやらしい男にうつっただろうか。僕が子どもの立場だったら、多分そう思うだろう。健康な時は、こんなことしないんだから、見逃してね。


案の外、というか案の定、偉そうに並べられていた飲み物はどれも荒れた喉にヒリヒリと滲みてきて、とてもじゃないが全て飲み干せるような状態ではなかったし、気がつけば、飲み物が発していた先ほどの光は消えていた。いつの日だったか、「コンビニやスーパーの照明って、食べ物が美味しく見えるように出来ているんだって」とかいう、いかにもテレビ番組からの受け売りの情報を発していた友人を思い出した。至極、納得。ていうか、どれも傷に滲みそうなものばかりじゃない。その時、なんだか無性に話がしたくなった人がいたけど、いい声だ、と言ってくれた相手に対して、今の僕の喉が電話をかける資格はない。寝る。


日曜の朝、身体は大分良くなっていたものの、昨夜の余った飲料達は、そのどれもがはっきりとしない温度になってしまっていた。要するに、ぬるい。床に座り込んだままポカリスエットをぐびぐびとあおる僕の眼は、しかし、しっかりと自分の机の下を確認した。なんだ、僕の机、下に引き出しついてないじゃん。見渡してみれば僕の部屋には、「彼」が未来からやってくるための引き出しもなければ、「彼」が寝るための押し入れもない。もとより期待できる環境なんて、整っていなかった。しかしまあ、なんだかもっと「彼」が面倒を見たくなるような、頭の冴えない、面倒くさがりの、しかしまだ夢のある子どものもとに現れれば、それでいいじゃないか。その証拠に、小学生が買ってもらう学習机には、必ずその「引き出し」がついている。案外、良く出来ているもんだ。


そんなこんなで、日曜の夜。頭の中がぐっちゃぐちゃ。渋滞した頭の中の交通整理をしないと。せめて、日曜日の22時くらいまでには。貧弱な会社員の、せめてもの義務。

長い付き合いの人間関係にある「表面的には些細なことで言い合っているように見えて、実はもっと根本的な不満をぶつけ合っている状態」について 『ブルー・バレンタイン』観てきた。



例えば付き合いの長い熟年夫婦を傍観していると、相手の細かな仕草やなんやが気に入らなくて、実に些細なことで揉め事になっていることが、ままある気がします。軽い気持ちで放った一言が、「そんな言い方しなくてもいいじゃないか」「大体お前はいつも・・・」というドッヂボールに発展したり、おそらく挙げはじめたらきりがない。しかし、ここで一つの疑問が浮かび上がります。


「その口論は、本当にそんな些細なところを相手に改善して欲しくてやってるのか?」ということ。それは違うと、未熟な若者なりには思うわけです。二人の関係性の根本的な理由となった破綻には触れられないから(触れたらそれこそ、この映画のラストにあるような、実質的な破滅が待っています)、その根本的な相手への非難を、最大限の思いやり(思いやろうとして思いやれなかった末の残滓が些細な嫌味なのだけれど)でオブラートに包んだ上で、ちくちくやり合っているのではないか。関係性の破綻とは何か。ものすごく簡単に言えば、「あんたへの愛、もう冷めちゃってるんだよね」ということ。


この映画は、「愛の冷めてしまいつつある夫婦」と「出会って間もない(要するにラブラブだったころ)二人」を交互に映し出すプロットをとっていますが、現在の夫婦は何も最初から「離婚よ!」ムードにあるわけではありません。しかし、上述の些細な口論やなんやの描き方が最高に秀逸になされていることで、二人の関係性の不穏さをふつふつと感じさせてくれます。犬の小屋を閉めていなかったとか、食べ方が汚いとか、妻の昔のボーイフレンドの話なんてしなくていいじゃないかとか、そんな具合。そしてその些細なようでいて徹底的な食い違いにイライラを感じる主演二人の演技も本当に素晴らしい。


そして、箸が転がっても二人で笑ってるんじゃないかというくらいの若かりし頃の楽しそうな二人と、嫌がる妻を連れて「未来の部屋」なるラブホテルの一室で例のごとく喧嘩を始める現在の二人の対比をこれでもかというくらい見せられると、正直胸を抉られます。おそらく、これに平気でいられる人って、その辺探してもそうそういないんではないだろうか。少しそれますが、このホテルの一室の照明が青みがかっているのは、重要な要素かと思います。このシーンにはこの照明以外考えられない。その意味では、ストーリーの中で提示されるもう一つの部屋「キューピッドの入り江」では、「ブルー・バレンタイン」は、なし得なかった(笑)


全然関係ないけど、同じくこの作品を観た友人と飲んでいた時に、「若い時はこんなに愛し合っているのに、歳取るとこんなにも冷めてしまうんだな(つまり若かりし頃の映像が起点)」or「若かりし頃の映像はあくまで現在の冷えきった関係が破滅に向かう途中の前提を見せているに過ぎない(冷えきった関係の方が起点)」で完全に見方が異なっていて、なんか示唆的だった。


最後に一言。ラスト五分はどんなに身構えても、瀕死覚悟で観た方が良いかと。しかし、間違いなく観ないと損する類の作品です。公式HPはこちら




個人的には、「星を追う子ども」が割と刹那的な映像をパッパッと見せて物語を進めていく映画であった一方、「ブルー・バレンタイン」は(二人の若い頃の映像も含めた)映像体験の蓄積がラストを際立たせるタイプの映画だったので、この二本を続けて観たことで、映画の観た方って本当に多様なんだな、と痛感した次第であります。

星を追って、内へ内へと潜る寓話的旅路 『星を追う子ども』観てきた。



いい意味でB級(A級より質が低いとかそう言うことではなく)感漂う不思議な映画でした。テーマは旅ということでしたが、監督が「秒速5センチメートル」を撮った新海誠ということもあり、自意識ムンムンのセンチメンタルなファンタジーを予想してこれ以上ないくらい斜に構えていたのだけれど、いい意味で裏切られた気がします。


まず序盤に、主人公の少女アスナが走り回る風景が詳細に書き込まれていて、綺麗なこと綺麗なこと。まるで一枚一枚の風景画の上に、キャラクターが踊っているかのように見えます。これだけでも観ていて楽しくなります。事前の情報を全く頭に入れずに観たので、これらの森林風景を舞台としたほのぼの系アニメのまま終わるのかと気を抜いていましたが・・・ストーリーは以下(公式HPより引用しました)

ある日、父の形見の鉱石ラジオから聴こえてきた不思議な唄。
その唄を忘れられない少女アスナは、地下世界アガルタから
来たという少年シュンに出会う。2人は心を通わせるも、
少年は突然姿を消してしまう。「もう一度あの人に会い
たい」そう願うアスナの前にシュンと瓜二つの少年シンと、
妻との再会を切望しアガルタを探す教師モリサキが現れる。
そこに開かれるアガルタへの扉。3人はそれぞれの想
いを胸に、伝説の地へ旅に出る―。
(映画公式HPより引用)


第一印象として残るのは、巷でも言われているように、ジブリと比較する気はないんだけど、限りなくジブリを想起してしまう作品だった、ということです。特に「天空の城ラピュタ」を意識してしまうのですが、ここで敢えて「ラピュタ」と「星を追う子ども」を対比することで、この作品の特性が見えてくるように思います。

天空の城ラピュタをはじめとするジブリの冒険ファンタジーは、いずれも壮大な世界観や現代社会への問題提起を持って製作されている一方、「星を追う子ども」は、(地下世界アガルタの描写は物理的に壮大なスケールには見えるものの)、降り掛かる試練にしても、登場人物の数にしても、意図的にミニマルな世界観が保たれていて、ある一人の人間の夢の中を追体験しているような、そんな不思議な気分にさせてくれます。

そして、決定的な違いは、ラピュタが「天空」にあるのに対し、「星を追う子ども」での地下世界アガルタは「地中」にあるということです。物語の決定的なシーンで語られる、少女アスナが旅に出た理由。ただ「寂しかった」、それだけのこと。ここで、地下世界アガルタを駆け巡る壮大なファンタジーが、全て個人的な感情の問題に回収されます。周囲の環境の中で感じていた自身の寂しさと、彼女が会いたいと願う少年への思い。壮大な旅の存在理由は、たったそれだけです。このシーンにおいて、この旅は、外に外に新しいものを求めて歩を進める類いのアドベンチャーではなく、深く深く、地中(自身の内面)へと潜っていくファンタジーだったということがわかります。

些末な表現を使えばセカイ系とか言われていたりしますが、そんな新海監督の作風は「星を追う子ども」でも健在だったのだなーと、このシーンで頷いてしまいました。


加えて、全編を通して感じたことは、「忙しい映画だった」ということです。2時間の中に決定的瞬間やなんやが沢山盛り込まれていて、画面と画面との文脈の薄さが気になり、観ているこちらが少し置いていかれそうになるシーンが幾度かありました。しかし、物語を追えなくなるほどではないですし、こういう意味でも忙しない他人の夢を観ているようで息もつけない設定になっていたのは、ある意味成功だったのかもしれません。


最後に一言。登場人物の一人、「先生」はどう転んでもムスカにしか見えない聴こえない。


うなぎなう



三島にて、鰻を食べてきた。うまし。


「倖」


「人」を「幸せにする」と書くこの漢字。これを今日から「うなぎ」と読むことにします。倖(うなぎ)は人を幸せにします。ほらね、ぴったり(誰がなんと言おうと)


ちなみに、頂いたお店はこちら↓

三島市のうなぎ専門店 うなよし

もう一日を生きる蝉にフラッシュバックする、ストックホルム・シンドローム 『八日目の蝉』観てきた。



ストックホルム症候群ストックホルムしょうこうぐん、Stockholm syndrome)
・・・精神医学用語の一つで、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことをいう。
Wikipediaより引用)


「血がつながっている家族だから」とか「腹を痛めた我が子だから」とか、そんな関係性を貶める気はこれっぽちもないのだけれど、血縁関係が尊いものだということは、もう、なんか、語り尽くされてますよね。『八日目の蝉』(映画&小説)は、そんな絶対的な人間関係(絶対的ゆえに人々がそのうえにあぐらを書いてしまうような関係)を相対化しつつも、一周回って人と人とのつながりの尊さを確かめるような方向性になっていると思います(なんか凄く安っぽい言い方になってごめんなさい)。


この作品は、不倫相手の正妻との子供(本名エリナ、希和子は「薫」と名付けた)を誘拐した女・希和子と薫との約4年間の軌跡と、事件後、大学生になったエリナ(薫)のその後を交互に映し出す構成をとっておるわけですが、そこではひたすらに、血縁以外の関係に擬似的な親子/家族の愛を見いだそうとして(社会的)悲劇を招く女と、血縁関係及び「普通の」家族を作ることに執着をし過ぎて壊れていく母の像が描かれています。


原作は角田光代さんです。僕はこの作家さんが好きなので、大抵の作品は読んでいるのですが、思えば角田光代という作家は、作品ごとに角度は違えど毎度この「家族コミュニティに憧れて、擬似的にでもそれを作ろう(再生しよう)ともがく他人同士 or 血のつながっている者同士なのに、ふとした瞬間相手に「赤の他人」性をみてしまう家族」をテーマにしているように思います。両者は全く別のベクトルを持っていながら、その実コインの表裏のような関係なように思います。

『キッドナップツアー』では、娘との別居を余儀なくされた父親が娘を誘拐して一夏をともに過ごした結果、父が娘に対して「おまえがどういう大人になろうと、それは俺のせいじゃない(うろおぼえ)」というような感動の家族モノとは似ても似つかぬ他人行儀な台詞を吐いていますし、『対岸の彼女』では、住み込みバイトや家出などでいっときだけ関係を密にしていく女学生二人(二人とも、家族的な関係には不満を持っていたような憶えがあります)の姿が描かれています*1し、『空中庭園』では、「隠し事なんかないはずの家族を群像劇的に描いてみたら、実は赤の他人のように別々の秘密や関係を持っていた」という構成をとっています。

要するに、これらの物語からひしひしと考えさせられる(ように思う)ことは、「*家族って、同じ血が流れてるっていう先天的な理由だけから尊いとされるんであれば、別にもっと濃い関係って、あるんじゃねーの(そういう運命的なものだけが理由じゃないんじゃないの)」ということです。今回の『八日目の蝉』で言えば、家族=本当の両親/別にもっと濃い関係=希和子と薫がそれにあたります。

で、「あの誘拐事件がなければ普通の家族としてやってこれたはずなのに、全部あの女のせいだ」として無意識的に拒み続けていた希和子の存在を、エリナ(薫)が赦すラストシーン。彼女が「あなた(=希和子)のこと、ほんとは憎みたくなんてなかった」と叫ぶのは、上記の「*家族って〜」の疑問に自分なりの結論を出して、希和子を赦した瞬間なんではないでしょうか。尊いことがはじめから約束されている血縁関係ではなく、道徳的に肯定することが許されていないストックホルム・シンドロームが、頭をもたげる瞬間。あの瞬間は、映画でも原作でも最高のハイライトで、なんだか解放された気分になります。(いや、勿論誘拐は犯罪ですよ。ダメ、絶対)


実は、映画の中では上記と似た構成のハイライトがエリナ(薫)と誘拐事件を調査するフリーライター千草との間でもう一つあるのですが、それを書こうとすると、この作品のもう一つの特徴=幼少期でのエンジェルホーム(現実世界から半隔離された状態で自活する女性限定のボランティア団体(その実はエンジェルさんなる教祖率いる宗教団体))での生活を説明する必要があるので、省きます。そこでもやっぱり、「普通の」家族にはなりきれなくて、「女二人で母になる」といった関係を夢想したりしています。


映像の部分で気付いたのですが、この映画では、登場する女性が対話をしているとき、頻繁に視線が相手を観ていないような撮り方をしています。二人の人間が対面している所を一人ずつ別々に撮ることで、二人が向かい合って会話をしているように見せる方法を切り返しというのですが、作品中、カメラが切り返した瞬間にまるで相手の視線がもう一方を向いているように見えない。意図的なのか否かは分かりませんが、その撮り方もあって、登場する女性陣が誰一人正気に見えないという違和感があります。


それから、劇団ひとり演じるエリナ(薫)の恋人役及び、昔希和子と不倫をしていたエリナの実父が、子供の話をされた瞬間、両者共に「『ちゃんと』してからにしよう、それまで待ってくれ」とその場を逃れようとするのですが、こういう時の男の「ちゃんとして」発言の「ちゃんとしてない」レベルは凄まじい。これは、映画の中で最も恐ろしいシーンですよ(男性限定)。男としては気をつけたい・・・

ちなみにこの映画では、男性陣は完全に蚊帳の外です。実父は、誘拐から保護されたばかりのエリナのことを「この子」と呼んでいますし、大学生になってバイトを掛け持ちしながら自活しているエリナの様子を観に行った父は「親ぶるなんて、お父さんらしくないよ(この一文だけみると「親」と「お父さん」の語義矛盾ですが、映画全体を通してみると、この台詞一つで作品のテーマを表現できている気もします)」という台詞を浴びせられています。


なにはともあれ、原作、映画ともに面白いので、まだの方は是非どうぞ(この説明だけじゃ何がなんだか分からないと思うので)。映画では、舞台の一つである小豆島がとても美しく描かれていますし、それだけでも見る価値があります。


余談ですが、ちょっとクレイジーなライター、千草を演じる小池栄子の演技が素晴らしすぎてのけぞった。この人、どこまで役の幅広げたら気が済むんだろう(どれも神経質そうな役柄だけど)。この人に注目してこの映画観ても損しない気がします。


映画オフィシャルサイトはこちら

*1:対岸の彼女』小説中ではこの二人のうちの一人[Aとします]が大人になってから、思い出を語る中でこのエピソードが登場するわけですが、このAの現在の性格は、もう片方の女の子[Bとします]にそっくりなのです。大人になってからのエピソードと学生時代のエピソードが交差して語られる中で、二人がともにした時間は極めて短い間ではありながらも、Aの心にはいつもBの人間性がシンクロしているように思えてきます。この構成は本当に見事なので、未読の方は是非ご一読ください。